現在公演中の『ほんものの魔法使』を配信で見た時は
正直、単純におもんないなと思ったのですが、(ごめん)
生舞台で拝見したところ、思いのほか良かったです。
全体的にテンポ感が良くなったし、
笑いどころをフューチャーしたことで抑揚がついた印象。
なので想像以上に会場で笑いが起きていました。
何より原作の内容を頭から消し去って見てようと心掛けたことで、
感じ方が変わった部分が多々有るなぁと思ったり。
というわけで本日は『ほんものの魔法使』を見ての
超個人的な感想を綴っていきます。
【キャスト別感想と初日レポはコチラから】
宝塚が放つ異彩なファンタジー
まず、大前提として、
キムシン先生は話の主題を変えてきたように思います。
ほんものの魔法とは、身近な自然の摂理であること。
頭という箱で空想すれば、望むものは何でも手に入るということ。
原作が発表されたのは1966年、この時点でそんな、
引き寄せの法則的概念が生まれていることに驚きますが、
原作版の主題は、要はそういうところにありました。
ですが、宝塚版は引き寄せの法則よりも、
むしろ無垢な存在という異物を締め出そうとする、
ムラ社会的思考を批判する点に置かれていたように思います。
人は自分と違うものを見た時、恐れを感じ排除しようとする。
それが秀でたものであればあるほど、その思いは強くなる。
それが新に評価されるのは、その排除が終わった時である。
…的なことをアレキサンダー教授がアダムに話していましたが(うろ覚え)、
うーん、まさに宝塚でよく見かける構図ですよね。
この世界で可愛くない女の子なんて居ない、みんな選ばれ愛される資格が有る、
というのも、実に意味深なメッセージでしたね。
そしてそれを、朝美絢という、イケメンだけど宝塚的でなく、
テレビ等で出演するとSNSでバズってしまうような、
劇団の想定外的人気を持つスターを無垢な存在として中心に置き、
疎外される苦しみを演じさせるだなんて、ブラックジョークが効いてます。
また、カラフルな衣装、蜂や牛、マシーンたちという
子供向けミュージカルちっくな雰囲気の中でそれが示されてるわけですから、
まさに異彩なファンタジー作品。
そしてオリジナル要素が強まる第2幕で印象的だったのは、
ピーターとジェインの和解ですかね。
魔法と言う呪縛から逃れ、大人たちが抜け殻のようになった最中、
ピーターとジェインは互いを赦し、手を取り合って前を向き、
ニニアンは赦しを求め旅に出ることにした。
実に「救い」のある表現だと思います。
疎外と受容。
それが本作のテーマだったのかなと思い至りました。
説明が足りなくないですか?
だがしかし。
これがキムシン先生が伝えたかったメッセージなのかは分かりません。
だって全体的に説明不足なんですもん。
キムシン先生は原作を読み込んでおられるでしょうけれど、
初見で舞台を見た人は色んな設定を知らないわけで、
そこが省かれているからいまいち理解しづらい、
いわゆる不親切設計な部分が多々みられたと思います。
まず大前提として、マジェイアの魔術とは手品のことで、
この町で魔法使になるためには加入試験を受けなければならなくて、
だけど町は伝承形式で魔術を伝えるほど排他的なところで…。
みたいな説明、完全にすっ飛ばしてませんでした?
突然「試験を受けに来ました!」とアダムが言ってみたり、
魔術師メンバーが「親から子へ~♪」と歌ってみたり、
だけじゃ観客には伝わらないと思うのです。
他にも、アダムがジェインを助けた後に「市庁舎はどこ?」と聞くのも、
試験会場が市庁舎で行われていることが明かされないと分からないし、
ピクニックでバスケットには虫食い林檎くらいしかないとジェインが嘆くのも、
母がしみったれたケチババアである描写が無いから唐突な印象。
そもそも、市長邸のマシーンたちが出てくる場面。
ここは原作だと「機械仕掛けの脅威の設備(ほんものの魔法のよう)」であり、
それはすなわちアダムの魔法と反する存在として描かれ、
2つの魔法が決定的に違うことが明示されているわけですが、
舞台だと特に説明も無く突然始まりましたよね。
オリジナル展開が続く後半も、ピーターの蜂事件で怒られたジェインが
「娘だからってこの扱い!!」と怒るけど、
「女だからって」の方が話がスムーズに進むと思うし、
頭に来たから何かを嚙まないと気が済まないとモプシーが家を出てしまうのも、
ジェインが心配だから見てくる等の方が話しの展開としてはスムーズよね。
個人的に見ていて一番理解不能だったのは、
ワン・メイがジェインにアダムが魔術師たちに狙われていることと、
だから関わらない方が良いと幕前で助言する場面。
文字に書き起こすことが出来ないくらいワン・メイが超遠回しに助言していて、
「なんで分からないの!!」と怒る彼女に
そりゃ分からねーよと突っ込みたくなりました。笑
「お父さんが話しているのを盗み聞きしちゃった」等ではダメだったのかいな…。
あとはラストもなぁ。ニニアンがジェインを町に残るよう勧めたのは、
彼女がアダムがこの町にいた証であり、ほんものの魔法の教えを残すためという
物凄く重い理由があったのに、そのあたりの説明も無く、すんなり去ってしまった。
そりゃもちろん、なんでもかんでも説明すれば良いわけでなく、
舞台に余白が必要だということも分かります。
だけどこれじゃあ脚本家が伝えたいメッセージは伝わりません。
その隙間を、雪組生たちが声色や表情、すなわち芝居で、
きちんと埋めていたお陰である程度楽しむことが出来たわけですけど、
配信ではなく生観劇で伝わるものが多かったのは、
出演者たちの熱量が伝わって、やっと完成する舞台だったからなのかもしれません。
ファンタジーの月組の系譜?
ところで、キムシン先生が公演パンフに書いていましたが、
宝塚でファンタジー物ってなかなか企画が通らないらしいです。
確かに、振り返ってみても少ないですよね。
最近の作品で思いつく限り書いてみると、
『PUCK』『アリスの恋人』『バラの国の王子』あたり?
と書いて思ったのは、全部月組作品であること。
あれ、もしかして朝美絢ってファンタジーの月組の後継なのかな?
と思ったというのは、また別の話。
☆★☆★☆
ランキング参加始めました!!
ぜひポチっとお願いします↓↓
コメント
試験会場は公会堂ではなく市庁舎ですね。そのことは最初に門番が教えていたような気が…
記憶違いですかね?
あまり印象に残る話し方ではなかったので自信はないのですが…
個人的には、細かいことを気にせず観ている分には華やかな場面もあり十分に楽しくみれたな、という感想ですねー。舞台のテーマが何だとか読み取ろうとする方には合わないのかも(というか木村先生もメッセージは明確にしようとしてないみたいですし、歌劇のコメントを読む限り)。
朝美さんはファンタジーが似合いますね。PUCKが新公時代の演目で回ってきて主演をとれたのは運が良かったと思います。
ご指摘ありがとうございます、そうでした、市庁舎でした。
この場面や市長邸のマシーンのくだりもそうですが、説明されたようなされてないような…と見ながらモヤモヤしてしまって
そういった部分を含めもっと分かりやすく説明して欲しかったなぁというのが個人的な感想です。
あ、やっぱり市庁舎ですよね。
市長邸での仕掛けとタネの件はもう少し欲しかった感ありますねー。燕尾服の仕掛けの説明の部分も入れるとかどんな手品道具を持ってるか自慢させるとか…
作品を通して余韻の残り方がよかっただけにあともう一歩いけたら…と惜しい気持ちにはなりますね。
説明されなければわからない?そのために公演期間が長くとられています。
余韻や行間、その時代背景含めて勉強して点と点を繋げていくのも観劇の楽しみだと思います。
1回で理解しやすい公演て傑作かチープな作品のどちらかで、ろくにないんじゃないですかね。
あなたの言葉は本当に上から目線で、あなたの好きな人の印象も悪くなります。
直す気はないでしょうが、少しは自覚された方がいいですよ(^^)
コメント頂き恐縮なのですが、1回で理解出来ない作品だからこそ崇高であるという考え方は、私は全く共感しませんね。
もちろん様々な伏線や行間を読んで類推するような、いわゆるエヴァンゲリオンのような作品があるのも理解します(し、個人的には好きです)。
けれどそれは、まずは作品として1度で見て面白いことが大前提ですし、公演期間が長く取られているのもそういう理由では決してないと思います。
そもそも少数しか観劇出来ない小劇場で複数回見ることを前提で作るなんて、身近な娯楽を歌う宝塚の理念と反するのでは?
キムシン先生もファンタジーものとして、そういう意図をもって作られたとは個人的には思いません。
もっと気軽に見て楽しめるような、けどファンタジーの裏に隠されたメッセージの意図を伝えたい、というような作品だったと私は解釈しています。
蒼汰様
いつも楽しみに拝読しております。ライビュ専科の地方民です。
先日全ツで拝見した「ヴェネチアの紋章」は、綾さん演じる外交官マルコが歴史的背景を説明するセリフの膨大なことにびっくり!と思えば、「桜嵐記」でも、「みなさん、南北朝時代を知っていますか?」と池上彰ばりの歴史解説コーナーがあるそうで。
植じいのベルばらや風共でも、カーテン前で懇切丁寧に歴史説明セリフコーナーがありまし、「ワンス~」でも、ユダヤの歴史について説明していましたねえ・・・
植じいは、「所詮少女歌劇、お嬢さんの学芸会だから、歴史考証とかちゃんとしていないんだろう」などと言われたくなかったので、しっかり説明した、と言っていました。
大劇場作家に必要なのは、中学生の子にも「わかってもらう」ようにつくることで、それは決して観客を中2レベルと見くびってレベルを落として説明しろということではなくて、
観客の理解力を信じて、配信で見ていてもセリフのロジックをたどっていけば、作者の言いたいことに辿り着けるように作品を構築することでは?と思うのです。「ヴェネチアの紋章」は、まだハプスブルクとかオスマントルコを習っていない中学生にも、塩野七生先生や柴田先生の想いは伝わっていたと思います。
作者が、役者の肉体感覚や感情表現に頼っていては、後世に再演される作品にはなりませんよ。
実際に観劇されたら印象が良くなったようで良かったです!せっかく劇場でご覧になれるのに、もったいないなあと残念に思っていたので本当に良かったです。まあストーリーがイマイチでも、生あーささえ観られれば満足できそうですが(笑)ずーっと眺めていられますよね、あの美貌。
ワンメイのなんで分からないの!のくだりは、確かに遠回しすぎる話し方なんですが、ジェインを助けたいけれど、父の信頼を裏切りたくない…という気持ちのせいでそうなってしまったのかなあと。同じ娘なのに父に信頼され大切にされてるワンメイと、大切にされていないジェインの対比が際立ちますよね。ハリポタもそうですが、英語圏の主人公は家族にいじめられるのがセオリーなんでしょうか。モプシーの回りくどい話し方も、英語圏の児童文学を日本語訳した感が強かったです。柴田作品のような日本語の美しさは感じられませんでした。
ファンタジーが舞台化しにくいのは納得です。人間の想像やCGを超える世界を舞台装置で表現するって、なかなか難しいですよね。ファンタジー大好きなのですが、やはり舞台では人間の心情の機微が見たいと思います。
上記のこんちゃんさんのご意見を読んで、最近の視聴者はドラマをスマホをいじりながらとか、倍速で本数を見ることが多いため、作家はスポンサーなどから、わかりやすく、セリフで全てを説明するように求められるという話を思い出しました。
無言の余白になにかを感じたり、考える余韻や受け取る幅のあるものは、視聴率や反応が悪いそうです。
上田久美子先生の作品でも、今回の月組のものは歴史的な知識がなくても説明が多いためとても分かりやすく、クライマックスに集中して感動できる作りになっています。
同じ退団公演でも、雪組のfffは考察や解釈が多数生まれ、そう言った楽しみ方が好きな観客と、そうでない観客との間で評価が分かれました。
fffをウエクミの悪い点が出た、という方はきっと、キムシンだからなぁ、と今作を評価されるように感じます。
蒼汰さんが仰るように、たしかに不親切、もっとこうすれば、と思う点もあります。
すべての観客が原作を読み、歌劇の鼎談を読み、シザーハンズを観ているわけではなく、プログラムの演出家のメッセージを読んでいるわけではない。
劇場における魔法とはなんだろう、と木村先生は書いていますが、この作品をどう受け取るかは観客それぞれに任され、試されたように感じました。